東京に向かうはやてにて、曖昧な境界線を思う
さて、皆さんは列車に乗っているとき、窓の外を見ながらどんなことを考えていますか。
それとも外の景色はほとんど見ないで、音楽を聴いたり本を読んだり眠ったりしているのでしょうか。
黒田硫黄氏の短編集『黒船』に収められている「海に行く」という作品の主人公は、
電車の窓の外の流れる屋根づたいに、忍者の跳躍している姿を想像しているようですが、
私はというと、列車に乗っているときはいつも、知っている土地と知らない土地の境界線が
どこにあるのかを探すことにしています。
しかしながら、理論上行ったことのある土地と行ったことのない土地というのは、
明確に分けられるはずなのですが、どうも、注意深く外の景色を見ていても、気づくといつのまにか
見たことのない景色が広がっているので、境界線を見逃した気がして結果的にいつも悔しい思い
をすることになるのです。
おそらく人間の記憶自体が曖昧なので、境界線を探っている間に「あれ?ここは来たことがあるような
無いような…?」といういわばグレーゾーンに遭遇してしまうため、境界線が曖昧なままになって
しまうのでしょう。
この境界線の曖昧さは、他にもさまざまなことについて言うことができます。
例えば天気。
天気予報上は地域によって晴れだったり雨だったりと分けているんだけども
じゃあ、いざ晴れの地域と曇りの地域と雨の地域を地面にチョークで線を引いて分けてみようとしても
不可能ですね。まあ、当たり前といやあそうなんですけども。
それから境界線の規模はずっと小さくなりますが、へそ毛とその下の毛の境界線も曖昧だと言えます。
以前ダウンタウンの松っちゃんが「西条秀樹が芸能人水泳大会で見せていたぼーぼーのギャランドゥは
今思うと、実はテレビで放送してはいけない毛だったんじゃないのか」
というようなことを言っていましたが、これも境界線の曖昧さゆえに起きた問題だと言えるでしょう。
他には夢の始まりなんてものも挙げられます。
夢というのは終わるときはインパクトのある終わり方だったりするため、夢のどういったシーンで
終わったというのは割と覚えているものですが(年をとると夢自体ほどんど見なくなるけど)
夢の始まりは、はっきりしてないんですよね。
それがなんとなく気持ち悪くて、子供のころは「なんとかして夢の始まりとそれ以前との境界線を明らかに
してやるぞ!」と意気込んだこともあったのですが、結局はできないまま今に至ってしまいました。
それからこの夢の始まりの曖昧さに近いものとして、人生の始まりの曖昧さというのが挙げられるでしょう。
たまに、生まれた直後の記憶があるという人がテレビで紹介されているのを見ますが、
大部分の人にとって、自分の一番古い記憶というのは幼稚園付近のものじゃないでしょうか。
ちなみに私は3歳のときに階段から落ちて頭を打ったというのが、一番古い記憶です。
要するに、この世に生まれるものたちは、ほとんどみんな「あれ?気づいたら意識を持って生きているなあ」
といった感じで、漠然とした曖昧な境界線を越えてきているといえます。
こういった生の始まりの曖昧さがあるからこそ、人は時に生に対して懐疑的になり漠然とした不安感を覚える
ことがあるのではないでしょうか。
そのため、そこからいかに生に意味を見出し確固としたものにするのかが重要となってくるのでしょう。
ちなみに藤子不二雄の「どことなくなんとなく」という短編や手塚治虫の「赤の他人」という短編は
そこらへんの心理をうまく利用した作品なのではないかと思うのですがどうでしょう。
今となっては他の曖昧な境界線と同様、生の始まり(あるいは自我の目覚め)といった曖昧な部分に
明確な境界線を引くこをは不可能となってしまったわけですが、せめてたぶん遠いであろう未来に
終わりのラインをまたぐときには、境界線を明確に感じることができればなあ、と思います。
というようなことを考えていたら、その日(8月10日)は東京に着いてしまいました。
次回(日記のネタが切れたとき)は
「ヒゲ山、東京駅で体臭のきついおじさんに舌打ちされる」の巻をお送りします。
乞うご期待。